不倫叩きは日本的信仰が衰退していく一つの結果であること

不倫叩きの反対に、

1980年代は不倫全盛期といってもいいかな

その後は、

既婚者の風俗が公然と登場し、

失楽園ブームとかもあった。

これを宗教学的に解釈すれば、

これまでは戦後の日本社会を空想的にまとめあげてきた、

日本的信仰の崩壊過程と考えることができる。

日本人は勤勉だ、

憲法9条によって戦争はできない、

天皇陛下人間宣言したのだから特別な存在ではない、

などなど、

様な神話が存在してきたが、

いずれも現在的には誰もがその効力を信用していない。

これは、

かつての宗教改革の時と同様であり、

教会が独占していた魔術(公認されることで奇蹟とよばれる)に対する信用を失った人が、

神と個人との関係によって、

自らの不安を鎮めようとしたのに似ている。

不道徳や反倫理的行動は、

神の怒りを呼び起こす、

という考え方は、

実に人の心の中から消えることにない心理プログラムといえる。

日本人を日本人にするための思想というものが、

それが常に嘘であることを前提として、

装置としては機能するように社会は進んできたが、

世代が更新された結果、

その嘘を真実だと前例踏襲する世代が、

その機能を破綻させてしまうのは、

歴史の日常的な運動であり、

その結果、

信用を喪失する。

その時には、

それまでは見過ごされてきた不道徳についての糾弾が連続する。

個人の不倫や不祥事から、

国家間の条約不履行などに至るまで、

不寛容と人間性に対する極めて短絡的な理解が跋扈するようになる。

誰もが短い単位でしか歴史を理解せず、

百年、千年単位の教訓は故意に忘れ去られてしまう。

活火山の突然の噴火、

という表現も、

そのような思考をよく表現している。

御嶽山や白根の噴火をみれば、

活火山である限り、

噴火は突然、起こるのが当たり前、

という歴史的思考が欠如しているが故に、

本来、

これは火山予知の問題ではなく、

人の倫理性の問題だ。

そうした変化について、

今度こそ、

世界が自覚的でありえるのか、

という点が再び問題になり、

神学や哲学が脚光を浴びることになる。

けれども、

それも小さな枠組みで語られることで、

意味を喪失可能性が高い。